一角獣は夜に啼く

ただの日記です。

思ってることとか考えたこととか適当に書きます。 主にソフトウェア開発の話題を扱う 「ひだまりソケットは壊れない」 というブログもやってます。

ついったーに求めるもの、ブログに求めるもの

上記記事を読んで色々考えた。

あるいはTwitterを通じて、永遠の友達――――ただ寂しい夜を忘れるためだけじゃない、もっと価値のある関係を築いているのならそれは確かに価値があるだろう。そう、それは僕が求め続けている永遠だ。

でも、僕はTwitterで友達が得られるだなんて信じられない。Twitterでお金を稼ぐとしてそれが他の労働手段より稼げるとは思えない。だから、Twitterに永遠はない。

永遠があるという城を求めて - 永遠があるという城を求めて

ついったーとは何か、というのはなかなか難しい疑問だと思うのだけれど、一義的にはついったーとは自己表現の場である、と私は思っている。 ついったーに関してはよく 「ミニブログサービスである Twitter」 というような紹介がなされていたと思うし、それを聞いて 「いや、あれはミニブログではないんじゃないか」 って思っていたりしたこともあったのだけれど、「自分だけが書き込めるところに自分の発言を投稿する」、「リプライで他者の投稿に対して言及することができる (トラックバック的な感じ)」、「フォローすることで他者のついーとを購読することができる (RSS リーダーで読む感じ)」 というあたりを考えてみるに、ついったーというのはミニブログサービスであって、ブログ同様に自己表現のためのサービスである、とするのが第一義的に良い考えなのではないかと思う。

とはいえ、人と交流することに対する障害の撤廃が良く行われていて、人と交流するためのサービスであると考えるのもよい考えであろうと思う。 そして、その交流の根底にはやはり 「自己表現」 があって、何らかの意見をついーとして、それに対してリプライをもらって、さらにリプライして、そうやって意見交換する中で仲が良くなったりとか、自分の発言に対してふぁぼを付けてもらって、「あー、この人はこういう考えに同意するのかー」 と思ったりとか、意外と日常生活をしている中で人と話さないような意見や主張を根底において人と交流することができるという点は、ついったーにおける人と人の交流を考える上で見逃せない点である。 その点において、私にとってはついったーでの人間関係もわりと重要だなーという気がした。

まあついったーの使い方って人それぞれなので難しいけれど。

それはそれとして。

ついったーとか Facebook とか、多分周囲の人の目を気にして何かついーとしようとしたら、虚無感に襲われたり疲れたりするんじゃないかな、って思った。 多分 Facebook って人に何かを伝えるためのサービスで、だからこそ Facebook 疲れみたいなのに陥る人が多いと思うんだけど、ついったーって別に人の目を気にするようなサービスじゃないんだし、人の目を気にせず自分が吐き出したいものをそこに吐き出せば良いのではないのかな、って思った。 多分それは自分にとって価値あるものになると思う。

ブログ書くときって、大抵の人は誰かの目を気にしたりしないと思う。 ついったーは人との交流の障壁が下げられてる分人の目を気にしちゃうことが多いんだけど、多分、人の目を気にせずついーとするのが一番ついったーらしいんじゃないかなって気がしてる。

最近、自社の web サービスとか他社の web サービスのこととか、それを使うユーザーの気持ちなどを色々考えてみたりしてるけど、どう整理すればいいんだろうなー、って感じでもやもやしててよくわからない感じになってる。 もやもやー。