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一角獣は夜に啼く

ただの日記です。

思ってることとか考えたこととか適当に書きます。 まじめな話は 「ひだまりソケットは壊れない」 に書いています。

人工知能学会誌 第 29 巻 第 1 号の表紙に対する批判の話

議論 ジェンダー論

人工知能学会誌 第 29 巻 第 1 号の表紙に対する批判意見が話題になっていた。 思うところがあったので適当に書き残しておく。 ちなみに私は別にジェンダー論や社会学における差別といった分野に対する専門性は持ち合わせていない。

批判意見概要

表紙に対する批判意見は、主にジェンダー論の観点から述べられている。 Togetter でまとめられている様々な発言は、感情先行で書かれていたり文字数の制約で意図が読み取りづらかったりするので、批判内容については次の記事を見るのが良さそうである。

要するに 『「女性を模した人型の機械が掃除をしている様子を表現した図」 は 「家事労働は女性の役割である」 という性差別につながる固定観念を強化するものであり、学会誌という公共性の高い書籍の表紙としてはふさわしくない』 ということだと理解している。

あとはまあ、絵柄がどうのとか、人型 (あるいはさらに限定して女性型) の機械を描くこと自体がそもそもどうなのかみたいな話もあるけどここでは触れない。

今回の表紙の絵について

批判内容とは直接関係ないけど絵について思ったこと。 特に説明なども読まずに表紙の絵だけ見た印象としては、「自律型の人型機械が掃除中に本を読んでいる」 図であり、SF 的な夢があって、絵柄的にも一般受けしそうだなー、というものであった。

ブコメで 「なんで閉じた本を持ってる図なのにみんな本を読んでいると思っているんだろう」 という感じのコメントがあったから、それを意識して図を見たら確かに閉じた本を持っている図のように見えるといえば見える。 けどこれ、本の表表紙と裏表紙のパース的に本を開いているように感じる人が多いんじゃないかなぁという気がする。

人工知能学会によるデザインリニューアルのお知らせの中には 『今回のデザインは、「日常の中にある人工知能」というコンセプトで、掃除機が人工知能になっていることを表してい』 るということが書かれていたけれど、掃除機が人工知能になってるという設定と言われれば 「なんで掃除機を女性を模した人型機械にしたんだ?」 という気はする。

固定観念の強化について

性的役割分業の固定観念を強化するものであるとして批判された例として有名なものは、「私作る人、僕食べる人」 の会話を使ったハウス食品のシャンメンの CM (1975 年) であろう。 あの CM については、

  • 「私作る人」 という女性の台詞と 「僕食べる人」 という男性の台詞があり、男性と女性の役者の役割が明確にわかれている、
  • 視聴者への訴求のため、「私」 あるいは 「僕」 という存在は視聴者の投影先として用意されていると考えられる (個別の事象ではなく、一般化された 「男性」 と 「女性」 が描かれており、さらにそれらは視聴者の投影先である)

といったことから、性的役割分業という観点においてメッセージ性が多少なりともあるというのは納得できる。

翻って今回の表紙の図を見るに、登場人物は女性を模した人型機械だけであり、男性と女性の相対化による性的役割分業の明示はされておらず、単体の作品としての絵自体には性的役割分業という観点でのメッセージ性はないといえる。 問題となるのは 『女性が性的役割分業で家事を押し付けられてきた』 という背景を伴って絵を評価したときなのだと思う。 ここで、絵の読み手は次の 3 種類に分けられるはず。

  • A: 「家事労働は女性がするものである」 という固定観念が社会的に存在している *1 と認識し、それを問題だと感じている人
  • B: 「家事労働は女性がするものである」 という固定観念を持っている人
  • C: 「家事労働は女性がするものである」 という固定観念を持っておらず、社会的にそういう固定観念が存在するとは認識していないか、あるいは社会的にそういう固定観念が存在すると認識はしているが表紙の絵からその固定観念を想起しない人

A の人の一部が 「今回のような表紙は B の人が持つ固定観念を強化する」 として批判しているわけだが、B あるいは C の人にとっては 『女性が性的役割分業で家事を押し付けられてきた』 という背景を伴って絵を評価するということがないため、批判の内容を理解できない、というような形になってる気がする。

こういう性的役割分業の固定観念の強化を避けるために表現に気を付けるという話が次のようなところに書かれている。 行政の広報物での表現について書かれていたものではあるが、今回の表紙に対する批判の問題意識の参考になる。

ドラマやアニメ等での表現とか

この手の話でわりとよく出てくる話題としては、例えば 「『サザエさん』 ではジェンダーロールのステレオタイプに基づく封建的な家父長制の家族が描かれていて、固定観念の強化につながる」 といった、ドラマやアニメなどの作品世界における表現への批判があると思う。 サザエさん一家は一般化された家族像とかではないわけで、作品世界に描かれる個別の事象について云々批判するのはどうなん、って感じではある。

一方で、子供なんかは作品の影響を受けやすく、また、個別の事象を一般的なものとして捉えやすいと思うので、受け手としてそういうことには気を付ける必要はあると思う。 あと、ドラマとかアニメとかってわりとステレオタイプなジェンダーロールが表現されてることが多いと思ってるので、そういうのはちゃんと認識しておいた方が健全ではあるよね。

そもそも

ちょっと理想論的な話だけど。 そもそも、こういう 「差別に繋がりうる固定観念を強化するような表現」 に対する批判って根本的な解決にはつながらないよなー、って前から思ってる。 固定観念に端を発する差別というのは基本的には無自覚で行われるものであろうと思うのだけど、それをなくすためには、差別者が固定観念に対して自覚的になるとか、固定観念があるからといって差別的な言動を行わないようにするとか、そういう必要がある。 それは家庭における教育や学校教育の役割だと思うし、最近はそこら辺はそれなりにやられてるんじゃないかな、って気はする。 現実の社会から受ける影響なども当然あるわけで (例えばある子どもの周囲には、たまたま家事をする人は女性しかいなかった、という場合もあるよね)、そういう教育がちゃんとなされてなかったら、たとえ公共性の高い媒体から固定観念に基づくような表現を全て追いだせたとしても (それだけでは) あんまり意味はないわけだし。

もちろん不必要にジェンダーロールを強調するような表現をするのは避けるべきだと思うけど、過度に避ける必要もないと思っている。 上に書いたように子供は作品の影響を受けやすいと考えられるので、情報の受け手の主な対象に子供が含まれる場合とかはそれなりに配慮するとかは必要だと思うけども。

うーん

なんか特に主張もなくだらだら書かれた駄文になってしまった。 まあいいか。 個人的には、人工知能学会誌 第 29 巻 第 1 号の表紙は批判もされたけどそれも含めていいんじゃないの、って感じではある。 あと今回の件で思ったのは、過度な配慮によって表現が抑圧されるような社会にはしたくない (なってほしくない) なぁ、ということかなー。 (今回の件があったからといって別に何がどうなるとは思わないけど。)

人工知能学会誌 第 29 巻 第 1 号の表紙を見てたら 「年末の大掃除頑張らねば...!!」 って気持ちが高まってきたので掃除頑張る。

日本のジェンダーを考える (有斐閣選書)

日本のジェンダーを考える (有斐閣選書)

関連記事として

次の記事の考察 (?) が面白かった。

ポリティカルコレクト、難しい。

私の考えはわりと yugui さんのものに近いかなーと思っているので yugui さんのツイートも紹介。 (一部。)

人工知能学会所属の研究者と議論した社会学の大学院生が人工知能学会の関係者に向けて書かれた記事。 ジェンダー論や社会学について詳しくない人向けなのでわかりやすくなっている。

追記: 今回の件が盛り上がったのって

今回の件が盛り上がったのって批判対象や批判内容はあんまり関係なくて、Togetter でのまとめに見られるように、議論というよりも感情優先のツイートの応酬があったからなのかなー、という気がする。 本当にそうなのかはわかんないけど。 個人的にはツイッターの使い方としてはそれでいいと思ってるのだけど、一方で、議論とかにはやっぱり Twitter は不向きだよなー、と思った。

リプライでこまめにやり取りできるから、お互い向いてる方向が同じならリプライでやりとりして話を進めやすいというのはあるけど、全然違う方向を向いてるもの同士が 140 文字程度のやりとりで相手の問題意識を理解するとか難しいと思う。 専門性や背景が全く異なる相手に何かを伝えるなら今のところはやっぱりブログがいいのかねー。 はてなブログとかオススメ。

トラバができればなおいいのだけれど。

Twitter

議論するつもりなくツイッターに書いたことに対して的外れな批判意見が飛んできたらまあげんなりはするだろうし、一方で、自分の不利益につながりかねない理解不可能な意見を見たら反応したくはなるだろうし、いろいろ難しいよね。 社会を良い方向 *2 に向かわせるのって難しい。

*1:「社会的に存在している」 というのは、そういう固定観念を持っている人間が社会に影響を与える程度は存在している、という程度の意味。

*2:そもそも良い方向ってどっちだ??